叩き付ける豪雨の音と、決して安心できない距離に落ちているであろう雷の音。
自然の力には勝てず作業を中断せざるを得なくなった僕たちは、現場に誂えた簡易テントの中に潜り込み、ただひたすら嵐が過ぎ去るのを待つのみである。
「かなり濡れちゃったね。冷えてない?」
「僕は大丈夫だよ」
冷えてないかなんて、それはこっちの台詞だと言ってやりたい。
都合が良いのか悪いのか、狭くて薄暗いテントの中にいるのは僕と、自分のことより他人の心配をしている彼女だけだった。
雷雨の中でも嫌でも聞こえる、彼女の息遣い。彼女はどうであれ、一方的に想いを寄せているこちらとしては気まずいことこの上ない。
ゲンだったら、これもチャンスだと思うだろうか。
考えても意味がない。水浸しになってしまった帽子をぬいで、水が滴る前髪を絞った。
8月も半ばになると、機帆船もいよいよ完成間近という気配が漂っていた。
この一年で彼女は少しばかり背が伸びた。
背が伸びたというよりは、背筋を伸ばすようになったというのが正しい。
ひと度触れれば壊れてしまいそうだった彼女は、初めて出会った時よりずいぶんと大人びたように見えた。
「8月って、確か落雷の被害が一番発生しやすいんだよね」
「うん。積乱雲が発生するから、どうしてもね。雷は高いところに落ちるから砂浜みたいな場所は人が標的になりやすいんだ」
意外と、まともな話をしている。しかし一度に少し喋りすぎてしまうあたり、モロに緊張が出ているのは否めない。
気取られていないと良いのだけれど。
「……あ、」
何かを思い出したような。そんな声をあげて、彼女は小さく笑った。
「どうしたの」
僕がそう尋ねると、彼女は抱えていた膝に額を押し付けた。
小さい頃に読んだ雑誌にも似たようなことが書いてあったと、か細い声で、そう言った。
「……妹と、外で遊んでた時にこういう天気になって。突然だったから雨宿りできる場所も思い付かなくて、走って家に帰ることにしたの」
彼女が家族との思い出話をするなんて、滅多になかった。
「その時に雷は高いところに落ちるって思い出したんだ。だから姿勢を低くしてれば大丈夫だって、妹を引っ張って家まで走った」
どっちにしろ外にいたら危ないのにねと目を細めた彼女の声から感じ取れたのは、妹に向けられた愛情だ。
「帰ってもずうっと泣いてたなー。私がこんなこと言ったの、バレたら怒られちゃう」
「会いたい?その……家族に」
「会いたい。すっごく会いたいよ」
本当は、ずっとこういう話を誰かにしたかったのかもしれない。
何でもできて、強くてかわいくて、とにかく自慢の妹なのだと彼女は誇らしげに笑った。
「でもね、妹を思い出すと、ここにいたのが私じゃなくて彼女だったらって、どうしても考えちゃってた」
家族に会えない寂しさと、身近で優秀な人間と比べられて生まれてしまった劣等感。
どこか影を感じさせる彼女の後ろ姿を見て庇護欲のようなものを抱くのには、そう時間を要さなかった。
兄のような気持ちでいられたのも、最初のうちだけだった。本当の兄妹のようにいられたらどれだけ良かったかと何度も思ったけれど、どうしても駄目だった。
純粋に彼女の幸せを願う気持ちがある一方で、身勝手で欲にまみれた気持ちが日増しに募っていくのが恐ろしかった。
「でも、今は逆に私で良かったのかもって。だってあの子スマホがないと生きていけないって駄々こねるし、魚も嫌いで食べられないんだよ?」
「あはは、容赦ないなぁ」
「だから私たちが頑張って、もっともっと文明を発展させないと」
こんな状況では、いつまでも立ち止まってなどいられない。
彼女はもう、自分なりの答えを見いだしつつあった。
「……ねえ、君は怖くないの」
「なにが?」
「雷」
「私は……」
度々ふらりと一人でどこかへ行っていた彼女は、家族を探していたのだろうか。それとも背負い込んだ重圧に耐えていたのか。
結局彼女はいつだって孤独に戦っていた。
「私は平気……」
彼女が言い終わる前に、まるで カメラのフラッシュを大量に浴びせられたかのように辺りが白く点滅した。
ヒュッと彼女が息を呑んで、間髪いれずに轟音が鳴り響いた。
「び、びっくりした〜」
平気と言っておきながら彼女は悲鳴をあげて、あろうことか僕の腕にしがみついてきた。いや、隣には僕しかいないので仕方ないと言えば仕方ないのだけれど。
「羽京さんは大丈夫だった?」
「え?ああ、うん」
ぼんやりと返事をした僕を彼女は心配そうに見つめている。
ややあって、彼女が耳の心配をしているのだと気付いた。
「仕事柄、こういう音もよく聞いていたから」
「ん、そっか」
同じ場所で不安や恐怖を共に感じた人間には恋愛感情を抱きやすくなるらしい。いわゆる吊り橋効果だ。
ゲンが好きそうな言葉だけれど、彼の口から出るとどうにも俗っぽい。
今の気持ちを彼に聞かれていたら「ドイヒー!」と返ってくるだろう。
「あっ、ごめんなさい私……」
「待って、名前」
彼女は弾かれたように顔を上げた。
なにせ、僕はただの一度だって彼女をそんな風に呼んだことがない。
いったい何をやっているんだろうと思いながら、僕はようやく自分の体勢を理解した彼女が離れようとするのを止めていた。
この場合の止めるとはもちろん、実力を行使して、という意味だ。
「もう少しだけ。離さないで」
僕の腕を掴んだ彼女の小さな手が、僕の手にすっぽりと覆われている。
恥ずかしそうに伏せた目を縁取るまつ毛が、一年前の彼女と今の彼女はまるで違うという事実を物語っている。
「羽京さん……私、私ね、」
「うん」
「私ね、いつか妹にまた会えた時、今日までちゃんと皆と頑張って来たんだよって、胸を張って言いたい。雷は、本当はちょっと怖いけど……ちょっとだけね」
たった一年で、人は変わっていく。
前を見据える姿勢だけじゃない。顔つきも、その声色すらも。
彼女とゲンと三人で河原に立ち寄ったあの日が、遠い昔のようだった。
守ってあげたいなんて、とんだ傲慢だ。
脆くて、儚い女の子。守られるべきだと、ずっどずっとそう思い込んでいた。
そう思い込むことでしか、僕は――
あの日の後も、ゲンとそういう話をする機会は何度かあった。
言い争いをしていた訳ではない。
ゲンは好敵手であり、良き相談相手でもあった。
「いや〜流石におめでたすぎるでしょ」とやや呆れられたのは心外だったが。
ゲンは僕と同じ目で彼女を見ていると言ったけれど、本当は少し違う。
『俺は、あの子が見たくないと思ったものは絶対に見せたくないし、聞きたくないと思うなら、聞かせたくない』
『俺があの子にやってることはその場凌ぎの誤魔化しだって、羽京ちゃんはそう思う?でもね、あの子はそんなヤワじゃないよ』
『じゃあなんでって聞かれてもちょっと困るけど……強いて言うなら名前ちゃんが名前ちゃんだから、かな。ところでさっきから俺ばっかり大盤振る舞いで手の内明かしてない?』
ゲンは僕よりも前を歩いている。彼女の後ろ姿ばかり眺めていた僕をよそに、ゲンはいつだって彼女の隣を歩くようにしていた。
自分の気持ちをあらわにすれば彼女はきっと潰れてしまうと、僕は頑なに思い込んでいた。
「弱くなってきたね、雨」
彼女の言葉どおり、かなり小降りになってきた。気が付けば雷の音も遠ざかっている。
雨が完全に上がる頃には、ここを出て速やかにそれぞれの持ち場につく。
背中が粟立った。
ここを出たら、今日まで募るたびに握り潰していた自分の気持ちを、どうにかできる自信がない。それに対する罪悪感すらも薄れている。
ゲンは僕のこの様を見て、なんて言うかな。
何を今さら?それとも、そう来なくては?
どちらにしろ、彼は僕を見て口の端をつり上げて笑うのだろう。
「名前ならできる。きっと、妹さんもきっと見つけられるよ」
「あ、ありがとう……」
「気休めじゃないよ?僕も会ってみたいんだ。君の家族に」
彼女を困らせたくないのも、和を乱したくないのも変わらない。けれど、この嵐が過ぎたあと、僕たちはほんの少しだけ変わる。
誰かを堂々と想うことも、恋敵とちょっとした小競り合いをすることも、満たされた時代だからこそ気軽に楽しめるのだとばかり思っていた。
「だから、困ったときは僕にも言って。きっと力になるから」
思い描いてみたくなってしまった。
僕が名前の隣に立つ。そんな未来を。
2020.4.22
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